短編/一枚





昏い海の表層に遊泳 (あそ)んで、‘それ’はひたすらに考えていた。
一体自分は何者で、
全体何処から来たのかと。
どうやら現在の自分は海月 (くらげ)であるらしい。
丸い体躯が月影のように淡い光を滲ませているのがわかる。
生まれた場所なら必然的に、広い海原の何処か波間であるのだろう。
記憶からは完全に消去 (デリート)されてしまって、思い出そうとする努力さえ虚しい。
以上、保留。
今までに為し得た考察はこれだけだ。
しかし、何かが違った。
肌を這う…否、肌を這わない微かな違和感。
本当に知りたいのは、もっと別のことである気がした。



ゆらり、ゆら、ゆら。
揺蕩 (たゆた)って夢の中。
もしかすると自分はかつて、人魚だったものかもしれない。
――王子の胸に短剣を突き立てることができなくて、泡 (あぶく)となった深海の姫。
あぁ、月が綺麗だ。



海同様、夜に沈んだ空が、ぼやけて霞んで揺らめいた。
とろり、とろ、とろ。
酔い痴れて闇の中。
もしかすると自分はかつて、荒れ狂う水面 (みなも)に投げ出された恋人たちの、片割れだったものかもしれない。
――全く以ってロマンティックな話だ。
瞳孔を占めていた月が、ぶより、と奇妙に歪んだ。



寄せては返す黒々とした波。
世界がブレて、眩暈がする。
月は次第にその円を失い、そして。

たぷん。

空に消えた。
何事が起こったのだろう。
‘それ’はぼんやりと想った。
忽然と姿を消した光。
まさしくあの球体は、月であった筈なのに。

ちゃぽん。

空で魚が跳ねた。
魚の口に咥えられているのは――月。



そうだったのか。
‘それ’はくすりと微笑んだ。
わかったことは、ひとつだけ。
自分が月だと思っていたあの光こそが…海月だったということだ。








A Mad Tea-Party

Come Here Alice, the Lost Child!

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