中編/二枚




 君は、石灰の荒漠(さばく)を見たことがあるか?
 砂沙漠(すなさばく)の何処か大らかで果てしない白でなく、全ての色を許さない凄絶にして峻烈な白を。茫洋たる空間のもたらす開放的静寂でなく、神だけが創り得る圧倒的無音を。
 僕は見た。そして感じた。
 あの経験こそが僕のアイデンティティであると言え、比べるならば、それ以外は両親ですら僕に芥(あくた)の影響も及ぼさない。
 もう一度あの地へ行きたい。あの空に触れたい。
 未だに僕が永らえ続けている理由など、それだけで構わなかった。それだけを唯だ切実に…願っていた。




    T.


 空の青と砂の白。
 ふたつの海は視界の遥か彼方、地平線上において境を明瞭にぴたりと閉じ、まるでその先など無いと主張するかのようだ。
 しかしながら、僕は知っている。
 そう。永遠にも思える一線を越えると、其処には焦がれた世界が、ひっそりとその身を静謐に横たえているのだった。

 ヴォン…

 僕の頭上、ハンググライダーの飾り気の無い双翼が、乾いた空間を裂いて啼く。
 今年手に入れた最新モデル。性質柄、動力こそ搭載していないが格段に扱い易くなった彼女は、八年ぶりに滑空を試みる僕に対しても大いに優しかった。滑らかに前後するコントロールバーは数年来の恋人宜しく手に馴染んだし、自然と乗ってくるスピードもまた、僕の肌によく合う。何より、質量感が希薄なところがいい。
 とは言えそんな彼女でも未知なる空への航行には少なからず浮かれているのだろう――羽撃きにも似た拍動が、バーを握った両腕から僕の心臓を揺さ振って跳ねた。触発されて高鳴る鼓動が大気を叩く。そうして生まれた風は、軽快なリズムで以て後方に流れ、荒漠の空に一筋の軌跡を描いた。
 その曲線がすっかり青に溶け込んでしまう瞬間を待たず、どころか手の甲を濡らした水滴に天を仰ぐ暇も無く、スコールは突如としてやってきた。
 叩きつける雨粒と共に、既視感が僕を襲う。
 違う。デジャヴなどでは有り得ない。
 何故なら僕は、あの時のことを鮮明に覚えている。八年前、まだほんの子どもだった僕が、父親と母親を一時に失った日のことを。
 嵐の只中に身を置いてさえ鼓膜を掻いた金属音に、耳を覆いたい衝動に駆られる――ハンググライダーの主軸が折れたのだ。頸風に貫かれ、甚雨に揉みくちゃにされて、美しかった彼女の羽根はもう使い物にならない。
 彼女は二度と、飛べはしないのだ。
 そして、それはきっと僕だって同じ――……。

 開けていられなくなって閉じた瞼の裏側に、白い光が見えた気がした。


                *


 「お前は本当に、母さんそっくりだな」
 父親は、事有るごとにそう言った。
 子どもの僕から見ても、格好のいい人だったように思う。空に心底憧れて、荒漠に心底惚れていた。
 「ほら見ろ。物怖じせずにこの高度を楽しんでいやがる」
 僕の初飛行――三歳か四歳であった筈だが、勿論それはタンデムだった――の際、彼は涙のひとつも零さない僕を見て、驚くよりも笑ったという。確かに僕の容姿は母親譲りな箇所が多かったけれど、図太さまで似なくとも…と感想を述べて、母に殴られたそうだ。僕はこのエピソードを十一の時に本人の口から聞く。これまでの人生でハンググライダーに掴まった、最後の日のことだった。
 会話が交わされたのと同じ荒漠で僕たちはスコールに遭い、両親は帰らぬ人となる。僕だけが現実に取り残された。
 途方に暮れて自暴自棄になりかけた僕を支えたのは、翼を失う前に三人で見た、白い、白い神の庭の情景――もう一度あの大地を踏みたいと願う、その想いのみだった。


                *                


 「お前さぁ。辞めるって本当?」
 「え?あ…あぁ」
 背後から届いたバイト仲間の声に、僕は意識的に現状を確認する。
 今は仕事中ではないし、彼と待ち合わせをしていたとも思えない。つまり、出会った理由がわからない。
 「これかぁ…お前の欲しいヤツって」
 あっさりと僕から視線を外して、彼は目の前のショーウィンドウを覗き込んだ。硝子一枚挟んで静かに乗り手を待っているのは、質素で気高い羽根を畳んだ一機のハンググライダー。
 そうか。何てことはない、此処はスポーツ用品店で、僕がTPOも弁えず思考に呑まれてしまっていただけだったのだ。競泳に力を入れている彼が足を運んでも、何ら不思議は無い場所だろう。
 「グライダーだろ、これ。高いんじゃねぇの」
 「高いと思うよ。まだ買ったことないから正確にはわからないけど。…って言うかね、グライダーじゃなくて、ハンググライダー。グライダーはもっと飛行機みたいな形してるヤツ」
 「どうだっていいじゃん、そんなの」
 彼は放って置いたらパラグライダーまで含めてグライダーだと言い出しそうだったが、僕にとっても然程(さほど)重要なことでは無かったのでコメントは控えておいた。滑空をする為の動力無しの乗り物だという点では、どれも似たようなものだ。
 「これ買ってバイト辞めたらさ」
 ぽつり、と彼が呟いた。半ば独り言のようだった。
 「…お前、何処行くの」
 ―――滑空場所にどの地を選ぶのか。
 恐らくは、そんな単純な質問だったに違いない。
 けれども僕には、それ以上の意味を伴って聞こえた。例えば彼が、もう僕が此処へ戻っては来ないことを知っているかのような…。
 僕は問と同じく唯だ単純に、答えを返した。
 「荒漠、かな」    




    U.


 気付けばひとり、丹(あか)い大地に立っていた。
 沈みかけた夕陽が放つ紅よりも、むしろ砂を這う鉄錆の色が目に痛い。それは、植物の纏う色彩だった。
 くすんだ朱で構成された空間はやけに乾いていて、そのくせ微かに立ち上る、何処か磯を思わせる臭気が鼻につく。理由は恐らく、此処が非常に塩分濃度の高い地域だからだろう。地面を覆い隠す程に繁茂した赤い植物も、写真でだが見たことがある。確か、父親所有の図鑑に載っていた塩害を受けにくい種類の植物だ。
 塩に塗れた地で生物は暮らせない。それは人間とて例外ではなく、目の前に広がる赤こそが生存を勝ち得た最後の存在であるのだった。彼らですら、たった数%塩類の割合が増えるだけで、生き延びることが困難になる。死を是としないのならば、僕は一刻も早く白い砂を踏むべきだった。
 とは言え、一体此処は荒漠のどの辺りになるのだろう。位置など把握できる筈もなかったが、首を巡らせてみる。僕の右斜め後ろでは、ハンググライダーが破れた羽根を半分以上砂に埋(うず)めて、その残骸を枯れ果てた風に曝していた。
 「……」
 優しかった彼女。白い機体は薄汚れ、随分と古ぼけて見えた。
 伸ばしかけた手を、一瞬迷って握り締める。飛べない翼は切り捨ててゆくしかないのだ。

 ざぁ―――……

 「!」
 突風が彼女の切れ端を攫って流れた。僕の目は空を横切るそれを追う。かつて風を切って羽撃いた布は質素な骨組みを離れ、最後の舞の終わりに別の躯を捕まえた。

 別の……。








 その光景に、僕は













 圧倒された。








 鉄錆の大地をうねる白い波――否、大蛇。
 高さだけでも平均成人男性の背丈程ある巨大な体躯は、しかし世界の無音を維持して、僕はその存在に神を認めた。僕という器に満たされる、八年前と同種にして高位の感覚。それは、求めて止まなかった到達点。絶対的意思の支配下にある完全。形而上の揺るぎ無い恒久。
 ハンググライダーの羽根を背中に絡め、白い鱗を滑らせて。赤い海を大蛇が泳ぐ。
 僕は惹き寄せられるように一歩を踏み出した。

 ………。

 「ダメ」

 服の裾を掴まれたのだと気付くのに、多少の時間を要した。僕の左足は柔らかい砂を踏み締めて止まり、大蛇の姿は既にない。
 「赤い大地から、出てはダメ」
 背後から不健康に細い腕が伸びて、僕に前方を示した。
 驚いたことに其処には最早、鉄錆色の植物は影もなかった。いつの間にか僕は、塩に侵された土地を抜けようとしていたらしい。砂礫の上には初めて目にする灌木が、整然と間隔を空けて根を張っていた。
 「木々が…疎らでしょう?アレは、他者を殺す植物。毒を以て己を生かすモノ」
 「毒…?」
 「そう」
 彼女は握っていた僕の上着を手放して、ぺたりとその場に座り込んだ。警告は終えたものと判断したのか、それきり押し黙って地平線を見つめている。丁度、大蛇の消えた方角だ。
 「あの…ッ、君は、白い蛇を見た!?」
 今度は逆に、僕が彼女の袖を抑えた。緩慢に振り返った黒い瞳は僕の視線を捉えない。
 「逢う為に……来てるのよ」



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Come Here Alice, the Lost Child!

A Mad Tea-Party


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